糞みたいなコードは許さん、でも(ボクガセッカクカイタ)糞みたいな訳は許せと。ヤですが、何か?

「PHPプロジェクトの80-90%は巨大なクソの山であるという事実」という文書が、リンク先の blog にある。萎える文章なので読む必要は別にない。

ここのところ、「翻訳なんてお気楽なものよねぇ。」な文章が増え過ぎ、「各自勝手にホザいとけ。」という気持ちが大きい。原文そのまま読んでるほうが理解も早いし、誤解も少ない。指摘の blog も原文へのリンクがあるから、ちゃんと読む人は原文を読むだろう。

最近は blog を一瞥しただけで、「良い」か「悪い」かを判別できるスーパーな人々が多いらしい。その手の人にとっては、「糞の山」、「ゲットー」くらいのキーワードだけで充分なのだろう。し、か、し、だ。プログラミング言語を「ゲットー」と書いた人は誰かとか、その対象になった言語が何だったかを知っている人達が、こんな「糞そのもの」のような訳文を見逃してくれるわけなどない。

全文訳はしていない。原文の結びの部分についてだけツッコむ。

さらにインターネットで最も影響力のあるWebサイトやツールでPHPは採用されている、FacebookDigg、ウィキペディア、WordPressDrupalなど、彼らは間違いなく他の多くの人々よりも確かな見識を持っている。

この部分の原文は、

Additionally, it’s behind some of the internet’s most influential websites and tools, like Facebook, Digg, Wikipedia, WordPress, Drupal, etc. I’d bet that having a solid understanding of it opens more doors for a developer than any other.

である。

少し固めの文書にすると、

「更に、FacebookDiggWikipediaWordPressDrupal、等々、インターネットで最強の影響力を持つサイトやツールの背後には、 PHP が控えている。賭けてもいいが、開発者にとって PHP の正確な理解は、他の何よりも機会を増やしてくれることとなるだろう。」

くらいの訳文になるのだが、何をどうやって訳したのだろう?

原文は「PHP キチンとやってりゃ、イイことあるぜ!」くらいの結びになってる。その雰囲気はクソ文の山の中にズブズブと沈んで、どこかに行ってしまったようだ。

  • 文章を用意する
  • 誰かに(居なけりゃあ、別の気持ちで自分自身で)読んでもらう
  • 指摘や意見を取り入れて仕上げる

くらいの事をしていれば、ここまで悲惨な訳文にはらないはず。

プログラミングだって

  • テスト完了させる
  • 結果やソースコードを見てもらう(「レビュー」とも言う)
  • 指摘や意見を取り入れて仕上げる

という「スタイル」で開発するはずだ。

原文の内容を踏まえて、賛同の気持ちを込めて文章の調子を変える、読み手の理解を容易にするために注釈や訳注を付ける、という事は理解してもらえるかと思う。

しかし、自分の主張を訳文に盛り込んだりとか、自分の知識不足の言い訳や英語力不足の言い訳のために注釈や訳注を利用したりというのは、層になってしまった糞の山に、更にベタベタとまた別の糞を塗りつけるように思える。

文書を書くことと、コードを書くことはどこか通底しているなと思った。